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朝露の澄み切った水で顔を洗い、寝ぼけた頭を覚ます。
頬の擦り傷にちょっぴり染みて痛い。みんなはこれを名誉の負傷だって言って、笑ってたっけ。だけど僕は未だに、その言葉にどう返したらいいのか分からなくって「そんなことありませんよ」という事しか出来ない。
でも、ようやくみんなに認めてもらえたような気がするんだ。
一人前になるにはまだまだずっと先のことかもしれないけど、それでも僕は今なら、故郷の人たちに胸を張って言える。
「僕はウタカゼだ」って。
これは、そんな僕の話。
僕の名前はティール。コビット族だ。でも、それ以外にとりたてて何の特技も自慢できることもない。強いて挙げるなら、小さい頃から本を読むのが大好きだったってことくらい。でもそれには深い意味がある。
僕が他の人たちと唯一違う点がある。それは「メガネ」というものを顔にかけていること。
これは水晶の小さな固まりを、特殊な技術によって薄く、そして小さく加工したものを二枚、両目に合うように金属の棒と糸でつなげたものなんだ。
僕はこのメガネを通してものを見ないと、全く物が見えない。例えるなら水の中に潜ったときに目を開けた景色みたいな、全てがうすぼんやりとしか見えてこない。
そして、これは未だに病気なのかも分からない。
小さい時に僕は自分のこの異常に気づいて以来、僕は外で同じくらいの仲間たちと遊ぶこともままならず、ずっと家の中で本を読んでいた。顔を思い切り近づけて。
そんな毎日に終わりを告げられたのが、数え年にして10歳の頃。
忘れもしない、僕の村に立ち寄ってきた、ウタカゼの旅人の一団だった。
彼らが訪れてきたことにより、村は朝からちょっとしたお祭り騒ぎになった。ウタカゼ……いや、ウタカゼ様は僕らの世界では英雄に等しい存在だから。
辺りが暗くなると、村の中心の広場では大きな火が焚かれ、その周りでは様々な種族のウタカゼ様たちが村のみんなと一緒に酒を酌み交わし、話を聴き、リュートに合わせて歌い、踊り……
だけど僕はそのお祭りには加わらず、少し離れた小高い丘の上にある家の庭から、その遠い灯りを眺めているだけだった。まだお酒が許される年齢ではなかったし、それにこんな視力だから夜目も利かない。足手まといだから手伝おうにも手伝えない。だから僕は一人、おとなしく家で留守番をしていた。
月が真上にさしかかってきて、風も冷たくなってきたし、そろそろ家に入って寝ようかな、と思ったそんな時だった。
「あら、広場には行かれてないのですか?」
僕は振り返り、月明かりの中じっと目を凝らす。
そこには、銀色に照らされた髪の、女性の姿が。
静かで優しく、そして小さな鈴のように凛と暗闇に響く声。それに僕の村では目にしたことがない、軽やかな生地で織られた服に身を包んだ……
そうだ、間違いない、この人は――。
僕の胸の鼓動は一気に高鳴り、頭のてっぺんから爪先までかあっと熱くなった。
ウタカゼ……いや、ウタカゼ様が僕のすぐ目の前にいるなんて!
緊張していた僕は彼女の問いかけに応えぬまま、大急ぎで家へと招き入れた。風も冷たいし、こんな場所で身体でも冷やしちゃいけないと思って。
僕はすぐに特製のイチョウの葉のお茶を淹れ、お昼に焼き上げたばかりのクルミのクッキーでウタカゼ様をもてなした。
彼女は冷えた手をカップで暖めながら、優しい声で「ありがとう」って言ってくれて、僕はもう嬉しくて、照れてしまって彼女の顔すらまともに見ることができなかった……もっとも、この目で見たってあまり良くは判らなかったけど。
「あそこに居続けるのも疲れたから、ちょっとどこかで休もうかなと思って、こっそり抜け出してきたのよ」って彼女は言ってたっけ。でも無理もない。この村にウタカゼ様が来るなんておそらく何十年ぶりかだなんて父さんは言ってた、それにこれほどの大人数で来るだなんて前代未聞だ。村を挙げてお迎えして、もてなさなくてはいけない。
それくらいウタカゼ様は偉大な方なんだ、って鼻息荒くしてたっけ。
でも、その人がいま、目の前にいる。
僕はもう何を話しかけていいのやら全然分からなかった。
「あなた、目が悪いのかしら?」
二杯目のお茶をカップに注ごうとした時、ウタカゼ様が僕に、ふとつぶやいた。
僕はそのことを必死に否定した。だけど彼女は「こんなに部屋は明るいのに、なぜかあなたの動きがぎこちなくって……」確かにそうだった。部屋に入ってお茶と菓子を出すまでに、何度か僕は皿やポットを出すのに間違えたりしてしまったし、最初の一杯目は危うくこぼす寸前だったし。焦っていたのもそうだけど、ウタカゼ様は僕のことを薄々感づいていたのかもしれない。
「大丈夫よ、正直に言ってくれる?」彼女の二言目に、僕は自身のことを全部話した。この目のおかげでずっと不自由な生活を強いられていたってことを。
「そうだったの……今まで大変だったでしょうね」ウタカゼ様はポットを持つ僕の手をそっと包み込んでくれた。お茶で温まった手ではない、もっと芯から暖かい、まるで自分の心の中まで温もりが染み込んできそうな手のひらで。
その暖かさに、さっきまでの僕の緊張も解きほぐされてきたみたいだった。そう、もっと小さな頃にこんな温もりを感じたことがあったっけ。
僕の母親は5歳の時に流行り病で亡くなってしまい、以来、僕と父さんの二人っきりで生活していた。父さんは朝早くから工房にこもって仕事をしているんで、僕はいつもひとりぼっちで本に目を思い切り近づけて読んでいたんだ。
それだから、ウタカゼ様の温もりで母さんを思い出してしまい、僕はつい泣き出しそうになってしまった。
そして、自分のことを分かってくれた人がいてくれたってことに。
ウタカゼ様はそんな僕の涙を見て、こう話してくれた。
「明日の朝に私たちは帰るけど、その時私のいるウサギ車のところに来てもらえる? 今日のお礼をしなくっちゃね……そう、あなたのこれからのためにも」
彼女は僕の目に浮かんだ涙を、そっと拭い取ってくれた。
「さあ、もう泣かないの。男の子でしょ」
そう言ってウタカゼ様は、まるで一陣の風のように、僕の前から姿を消していった。
まるで夢のようなひととき。
そして僕は彼女の余韻に浸りつつ、眠りについた。
明日、何があるんだろうって思いを抱きながら。
翌朝、祭りの喧騒もまだ冷めないまま、ウタカゼ様たちはまた旅支度を始めていた。広場には大きな乗りカピバラや乗りウサギが何匹も集まっていて、その背中にはたくさんの荷物や折畳まれたテント、それにカヌーがくくりつけられている。よっぽどの長旅だったに違いない。
だけど彼らは疲れた表情を見せることなく、逆にまだ酔いの覚めきらない村の人たちと談笑している。ウタカゼになるには心も身体も飛び抜けて丈夫な者でないとなれないとは聞いていたけど……確かにその噂は間違ってはいないようだ。
僕は昨晩家に来た彼女の姿を探し、広場を探し回った。こんな目だから人混みもまともに避けられない。何度も誰かとぶつかり、つまずき……
銀色の髪のウタカゼ様、それだけしか僕は知っていなかった。迂闊だった。あのとき名前を聞いておくべきだったと後悔したのだが、しかし僕自身も名乗ることをすっかり忘れていたことだし、しょうがなかったかな、なんてちょっと諦めかけていた頃。
「おい、あの子じゃないのか?」頭の上、いや、僕の目の前にいるウサギ車の上からだった。男の人の声と「よかった、間に合ったわね」続く、あの人の声。
すると、まるで羽毛のような……いや、タンポポの綿毛が舞い降りるかのように、ふわりと音もなく、あのウタカゼ様は僕の元に降りてきたんだ。
彼女は僕の前にひざまずき、目線を合わせてきた。
その時ふと、僕の鼻先に、ひんやり冷たい何かが付けられた。
「昨夜のお礼よ」
直後、僕の目の前に広がる視界。
それが僕の目の前にかかった瞬間、まるで霧が一気に晴れたかのように、全てのものが目に、そして頭の中へと飛び込んできたんだ。
水面より深く青い空、ただようちぎれ雲。足元に広がる大地、そして緑の芝生。今までみたいなぼやけた世界じゃなく、くっきりとした輪郭を持った、新しい世界が僕の身体全てに入ってきた。
そして目の前には、にこやかに微笑む、あのウタカゼ様の顔が。
昨晩ランプの薄暗い部屋の中で見た時とは全然違う、その姿。
澄んだ清流にキラキラと輝くような、銀色の長い髪。でもそれ以上に綺麗な、深く吸い込まれるような光を讃え、優しく、それでいて強さを秘めているかのような、濃い紫色の瞳。
「どう、よく見えるようになった?」僕は目に映る全てに感嘆してしまって、ただ一言はいとしか言えなかった。
試しに目にかかったそれを外してみる。途端に今まで同様の、ひどくぼやけた景色。
……凄く不思議な顔飾りだ。よく目を凝らしてみると、水のように透き通った薄く、丸い水晶ような板が二枚。鼻先に乗っかるように金属の板でつながれている。ただそれだけで、全ての景色がくっきり、色鮮やかに見えるようになるなんて。これは魔法?それともウタカゼ様の作り出したものなのだろうか。
「これはメガネといって、西方の人たちが日常的に使っている道具なの。なんでもあちらの方々は、年をとると目の力が落ちる人が多いみたいで、水晶から削り出された板を、こうやって顔に合うように加工したのを使っているのよ」
西方? それは初めて聞く名前だった。だけど年をとると目が悪くなるなんて、僕なんかよりそういった他の方に渡してあげたほうがいいんじゃないのだろうか。
「ううん、今のあなたには、これが必要なんじゃないかって」
まるでその時の僕の心が読まれてるんじゃないかって思うくらい、彼女の言葉は的を射ていた。
「これでもう、あなたの前を遮るものはないわ、頑張って生きていくのよ」彼女はそう言うと、ぎゅっと僕の身体を抱きしめた。
薄布一枚の服から伝わってくるウタカゼ様の身体は、踏みしめる芝生のように柔らかくて、日差しのように暖かく、そして秋に咲く花のような少し甘酸っぱい香りがした。僕はその時、すごく懐かしい気持ちに満たされていたんだ。この感覚。ああ、そうだ。
僕は胸の奥で、母さんと言いそうになるのをぐっとこらえた。もうこの世にはいない、母さんそっくりの温もり……
ダメだ、言ってはダメだ。この人はウタカゼ様なんだ。僕らを外敵の脅威から、悪しき存在から護ってくれる貴いお方なんだ。
「あなたの未来に、雄々しき龍のご加護がありますように」
僕はその言葉に、胸の奥底で抑えつけていたものがとうとう止められなくなって、
声をあげて、泣いた。
ウタカゼ様はその後、揃って別れの歌を唄ってくれた。
みんながそれぞれに、リュートを奏で、笛を吹き、そしてあの人は、澄んだ声を村じゅうに響かせてくれた。
周りを見ると、村の人たちみんながその歌に涙を流していた。目を閉じると深く心に染み渡る、ウタカゼ様の声に。
「この歌、覚えているか?」隣にいた父さんが、そっと僕に語りかけた。
「お前が小さい時、母さんが唄ってくれた子守唄だ……」
そうだ、言われてようやく記憶が蘇ってきた。
まだ赤ん坊の頃、泣いてばかりで寝付きが悪くて。そんな僕にいつも歌い聞かせてくれた、あの子守唄が。
そんな母さんの懐かしい歌が・・・・・・
いつしか、僕の目の前の景色が涙でぼやけはじめてきた。
だめだ、大事なウタカゼ様がこれから帰るっていうのに、なぜ僕は何度も泣いちゃうんだ、止まれ涙。ってこらえているのに、押しとどめることができない。
メガネの向こうのウタカゼ様が、滲んでは流れ、また涙で滲んで。
そして太陽が真上へと差し掛かる頃、ウタカゼ様は村を去っていった。
ひと時のすてきな思い出と、僕の未来を残して。
※ ※ ※
いくつか季節は流れ、メガネのお陰で僕は父さんの手伝いがそこそここなせられるようになった。
友達と外で遊ぶこともできて、村の行事へも積極的に参加できて。
村のみんなは「ウタカゼ様の贈り物で生まれ変わった」と言ってたっけ、確かにそうかもしれない。家からほとんど出れなかったあの時の僕はもういない。
とはいえ、今でもやっぱり一人静かに本を読むことは大好きだったりするけれど。
そして、4年ほど経った頃……
僕はふと思ったんだ。この村を出て、ウタカゼになってみようかなって。
動機は浅はかすぎていたかもしれない。極めて安直な理由しか僕は考えていなかった。生まれて一度も出たことがないこの村。このまま父さんの仕事を継いで行くのも一つの生き方。だけどそれでいいのかな。なんて疑問が季節をめぐるごとに湧き出てきたんだ。
この目で村の外を見たい。僕らコビット族以外の存在"言葉を持つもの"達に会ってみたい。この世の果てまで旅してみたい。だけど、その為には……
その日の夕食のとき、思い切って僕は父さんに打ち明けた。
僕はウタカゼになりたい、って。
父さんは深いため息をついて、一言漏らした。「いつかお前はそういうと思ったよ」。
僕はその言葉に、これ以上食事がのどを通らなかった。止められてしまうのかな。怒られるのかなと内心ビクビクしながら。でも父さんはそれ以上結局何も言わないまま、気まずい夜が過ぎていった。
翌朝、食事の準備をしようと早めに起きて、居間のドアを開けた僕の目に入ってきたもの。
そこには、大きなリュックと、白い布に包まれた短い棒状のものが置いてあった。おかしい、昨日まではこんなものなかったのにって不審に思いながら。
「信念は変わらないな?」と、突然背中から父さんの声。僕は黙ってうなづいた。
「ならば話さないといけないな、この荷物の意味を」父さんは話してくれた。亡くなった母さんのことを。
19歳の時、僕と同じくウタカゼになろうと村を飛び出したって。でも、1年後に龍樹へと登ったけど龍には逢えず、この村に帰って幼馴染みだった父さんと結婚し、僕を産んだ。この装備一式は、その時の母さんの持ち物だそうだ。亡くなった後も、父さんはずっと欠かさず手入れしていたんだって。
リュックを開けてみると、冒険に使うための様々な道具、それに一冊の古びた厚い本が入っていた。
カビ臭いページをめくってみると、そこには途中までの書きかけの日記。
それと共に、珍しい植物も観察してたみたいだ。草花の絵があちこちに描かれている。それも、僕の見たことのない種類ばかりが。
母さんは、旅路の途中で珍しい植物を見つけては、この本に記していたんだ。
そしてリュックの傍らに立てかけてある、布で包まれた棒。
中には、まるで新品のように輝く一振りの剣が。
女性用にあつらえたのだろうか、やや刀身が短い。だけど体力的に拙い僕にとっては、むしろこの長さと重さがちょうど扱い易いかもしれない。
「全てが母さんの遺してくれた形見だ、大切に使えよ」そう言って父さんは、僕の肩の上にぽんと手を乗せた。
「俺よりも母さんの血が濃かったのかもしれないな」その言葉に僕は、全身が熱くなってくる感じがしたんだ。母さんが果たせなかったウタカゼの道。そして僕はその道を辿ろうとしているんだって。
最初は正直不安だった。だけどあの時……僕の道を拓いてくれたウタカゼへの道を、母さんとともにまた挑もうって決意した今、不思議と身体の中に熱いもの湧いてきたんだ。
「母さんが生きていたら、なんて言うかな」僕は冗談半分で父さんに聞いてみた。
「さあな……だが頑張れとは絶対言わないだろう」そうして父さんは鼻でクスっと笑い、続けた。
「どんなことがあっても諦めるんじゃないぞ。とでも言うんじゃないか」
父さんのガッシリとした手のひらが、僕の頭を荒っぽく撫でてくれた。
決心が鈍らぬうちに出ろ、と父さんは最後に話してくれた。
数日はもつパンと、父さん特製の魚の燻製。そして水筒をリュックに詰め込んで、僕はそのまま振り向かずに家を出た。まだ夜が明けぬうちに。
誰かに見つかりでもしたら、この決心が揺らいでしまうかもしれないし。だからみんなにお別れなんて言わない方がいい……でも少しは寂しい気はしたけど。
村の門をくぐり抜けると、行く手の地平線から大きな朝日が顔を出してきた。メガネのレンズ越しに反射して、よりいっそう眩しく見えてくる。
この朝日の上る道を真っすぐ行けば、ウタカゼ様のいる龍樹へとたどり着けるって父さんは言ってた。そこから一体どんな試練があるのかは全くわからない。だけど僕は諦めることだけはしちゃいけないんだ。
これは母さんが成せなかった夢をかなえるためでもあるんだってことを。
「母さん、僕を見守っていてください」僕は握りしめた剣へとつぶやいた。
そして、あの時、あの人が言ってた言葉。
「まだ見ぬ龍よ、僕を護ってください」
メガネ越しに空を見上げ、僕は祈りを捧げた。幾多の龍たちの魂が宿る、この広い大地へと。